「かみわの ばとうかんぜおん ほんどう・きゅうどう」と読みます。新たに国登録有形文化財とする旨の答申が文化審議会から出されました。当館のある雫石町に貴重な見所が増えますね^^
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上和野馬頭観世音本堂
(かみわの ばとうかんぜおん ほんどう) |
■国登録有形文化財とは?
社会的評価を受けるまもなく、社会の変化のなか消滅の危機に晒されているさまざまな文化財建造物を後世に伝えていこう、という趣旨で国が登録する建物などのことです。
全国で約10,500件余り、岩手県内では77件目、雫石町内では11件目になるそうです。東京タワーも登録有形文化財だそうですよ(ほかにどんなものがあるかは
こちら。)
■どんなところがスゴいの?
「古くから馬と深いかかわりのあった当町の歴史文化を示す特徴的な建造物として、その価値が認められ(
雫石町HP)」ています。正直、このニュースが出るまではその存在を知りませんでしたが、木彫りの彫刻はもちろん、見えない所に本当の価値がある、そう思わせる場所です。
■見えない所の価値とは?
上和野馬頭観世音本堂・旧堂にまつわるさまざまな話が残っています。少し長いので、当館からのアクセス方法を先に書きますね。続きが気になる方は、本記事の最後の方をジックリとお読みください。予備知識を得てから訪れると、当時の人々の暮らしが頭に浮かんできて、よりいっそう楽しめると思います。
■当館からの行き方
ナビやgoogleで検索するときは、「
上和野公民館」を目的地にしてください。
上和野公民館わきの砂利道に入り、300mほど進むと目的の場所に着きます。
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目的地はココです |
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上和野公民館。脇の砂利道を入っていきます。 |
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300mほど進むと鳥居があります |
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威容のある佇まい |
ちなみに、グーグルマップで「
上和野馬頭観世音」と入れても出てきません!また、googleではまだ未知の場所のせいでしょうか、
役場HPに表示されている住所「
雫石町上野下沢田105」で検索すると違う場所が表示されてしまいますのでご注意ください。
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惜しいけど違う場所が^^; |
それでは、アナタ様のご旅行の参考になれば幸いです。お近くにお越しの際は一度訪れてみてくださいね。
■上和野馬頭観世音にまつわる話
各所からの引用でご紹介します。
※引用サイトは
こちらです。
★岩手のお寺さん(テレビ岩手)より
江戸時代前期、将軍家並びに各藩の御馬買衆は、仙岩峠を越えて秋田から岩手に来ました。玄関口にある雫石も名馬産出の地。人々の馬神信仰は篤く、馬の霊をなぐさめる馬頭観世音の碑を建て、仏像の馬頭観世音を安置して崇仰しました。570余坪の敷地を有する御明神上和野の観音様もその一つ。渋民村の芋田、滝沢村の蒼前社とともに岩手郡三所の馬神として広く信仰されました。明治維新のころまで、雫石の風習に、四月十七日の早朝から七カ所を回る「七観音詣」がありましたが、その一つでもあります。
この馬頭観音は明治3(1870)年、いったんは廃堂になりますが、十四年に再興。
大正初めに再建された堂宇は総欅(けやき)で、正面を飾る彫り物は、東北の左甚五郎と讃えられた円満造こと高橋市蔵(秋田県中仙町出身・現大仙市)の作です。円満造は奇行の人で名人肌。たいそう歌好きで、秋田の有名な「ドンパン節」は「円満造甚句」が元唄と言われています。
馬頭観世音は、九月十七日が縁日。雫石町内の曹洞宗寺院(廣養寺、永昌寺)がお勤めします。
★岩持静麻「農の心を求めて」(JA岩手県五連岩持会長顕彰事業実行委員会 刊)より
<その1>(岩持)嘉兵衛家の初代祐助は、ことのほか愛馬精神に富んだ人で、雫石産馬組合長や盛岡産馬組合の役員なども務めていた。常時二十頭ほど飼育し、預託馬も五十頭ぐらい有し、長く馬産改良に務めてきた。
所有馬のなかでも馬産岩手の歴史にその名を刻む名馬「進風号」は、大正天皇の乗馬として献上されたものである。砂壁(しゃっかべ)勇次郎の育成した名馬と伝えられ、後に伊勢神宮の神馬となった。
大正三年、祐助が特に慈しんでいた一頭の馬が行方不明となり、いくら探しても、何日も帰って来なかった。祐助は祈願した。昔は上和野三右ヱ門家の敷地内にあったといわれる(「雫石町史」)観音堂を、行方不明の馬が無事帰って来た暁には、当代一流の宮大工の手により改築し、寄進しますと誓った。
ところが、祈りがかない、お馬さんは帰って来たのである。祐助は当時のお金で一千円寄進し、現存する立派な観音堂を建立したのである。
<その2> 上和野馬頭観音堂に掲額されている「馬頭観世音」の書は、新渡戸仙岳(にとべ せんがく)の染筆によるものである。
新渡戸仙岳は安政五年(1858年)盛岡の馬町に生まれた。教育者として名高く、石川啄木は盛岡高等小学校(現市立下橋中学校)の教え子である。
啄木は「馬町の先生といへば、説明するまでもない。此地方で一番有名な学者で、俳人で、能書家で、特に地方の史料に就いては、極めて該博精確な研究を積んで居る。自分の旧師である。」と小説「葬列」の中で述べている。
仙岳翁に書を依頼したのは初代祐助。馬頭観音の書を「馬町の先生」に頼むなど、祐助もなかなかのユーモリストであったようだ。
★矢羽々 昭夫編「不思議な気分になるところ・雫石」より
雫石盆地では、先人たちが縄文の古より、まわりの山々はもちろんのこと、一本の草や小さな虫の果てまで神と崇め、敬虔に生きてきた。その証が、神社や祠、あるいは道端の石仏、郷土芸能などになって、いまに数多く残っている。
御明神の上和野にある観音堂も、その一つである。産土の神さんであったり、愛馬の息災を念じ霊を安んじる観音さんであったり、神仏に渾然一体となって信心を寄せて祭ってきた。別当さんの岩持家を中心として、氏子の心と力でつくりあげた総欅づくりの風格ある社殿は見応えがある。
現在の社殿は、大正のはじめに再建されたものだ。馬が盛んだったころには、愛馬を伴って早朝からお参りする人が絶えなかったといわれる。それが、いつとはなく働き者のシンボル「ひるの観音さん」とよばれ敬愛を集めたとのこと。
「ひるの観音さん」がいるとすれば、「よるの観音さん」もおわすことになるのだが、
尋ねてみると町内にちゃんとおられるとのことであった。
ただし、観音さまのために釈明しておくと、人間の都合で「よる」にされてしまったようだ。でも観音さんは、そんな人間をおおらかに許しておられるように思う。